セックスレスと性欲

セックスレスという言葉は精神科医.阿部輝夫氏の命名だ。定義は概ね「男女の特定のカップルでありながら、1ヶ月以上セックスをしていない、或いは年数回しかセックスしないカップル」を指すらしい。しかし、社会学上のセックスレス.カップルは「別にセックスしなくてもいい」カップルがテーマとなる。故に、器質的障害や心因性障害でセックスレスになっているカップルの「セックスレス」は除外される。また、医学上ではないが、仲が悪くなったカップルのセックスレスも除外される。

社会学上の興味は「別にセックスしなくてもいい」カップルの存在である。実はこの新しい定義の信頼できるデータが不足している。当然のように、対比するデータもない。何故なら、この言葉自体が医学レベルから発生したために、データーの光は、その治療目的に作られている為である。NHKの調査によるとカップルの19%がセックスレスと答えているらしいが、何らかの医学的理由が存在しているカップルを含むデータなので、ここでは参考程度にしか出来ない。ただ、他の新聞雑誌などのデータを重複させることで、無理矢理10代20代のデータを類推すると、「セックスはそれほど楽しくない」と考える男が5%、女が19%程度いることが判った。

この数字が多いのか少ないのか、それも分からずにセックスレスの社会学上の意味を考えるのは、相当の暴挙である。しかし、恐れずに突き進もうではないか。
「セックスはそれほど楽しくない症候群」の男女は、「セックスは面倒だ」「セックス以上に楽しいことがある」「マスターベーションに比べ疲れる、汚れる」などという理由が述べられている。
当サイトの主張でもあるように、セックスが文化である以上、セックスレスも何らかの文化的影響を受けているに違いないという、仮説に立つしかなさそうだ。したいのに出来ない群は社会学のお客様ではない。初めから「セックスなんかしなくてもいいよ」群がお客様なのだ。
社会学からすると、人間のセックス源泉である性欲が、食欲や睡眠欲に比べて生存を脅かす本能ではない部分に光を当てる。性欲が本能ではないとまで言い切ることはしないが、確かに食欲や睡眠欲よりは階層が低い感じはする。しないと死ぬものではないのは確かである。データを離れて考えてみると、男女のカップルがセックス中心に関係付けられる時代は全盛期を越えたのかもしれない。

人間のセックスがコミニケーションという要素を持つことが、動物の性行動との大きな違いとしてクローズアップしてきたが、少々風向きが違ってきているようだ。その傾向は、まだトヤカクいう段階ではないだろうが、趣は違ってきている、無知蒙昧に全てを信ずることに躊躇いを憶える。

「愛あるセックスの肯定」「婚前性交の認知」「結婚前提ではないセックスの黙認」など、性の社会学が漸く追いついてき、性欲の文化的側面を解釈し始めた。しかし、これからは「セックスしなくても男女は親密になれる」という、異質な性現象の参加で「性は文化である。故に社会学の活躍が待たれる」といった流れに混乱が起きる可能性が出てきた。飛躍はあるが、セックスというものが、生殖、男女の親密性(コミニケーション)から逸脱していく奇妙な現象が起きることになる。こうなると、人間のコミニケーションとしてのセックスと云うものが独立した概念ではなく、もっと上位階層にある文化レベルに吸収される考えが生まれてくる。

つまり、文化的に男女のセックスは快感を求める人間の欲求のひとつになってしまう可能性があるということだ。音楽を聴く、猛スピードで走る、ゲームに興じる、出世する、金持になる、虚栄心を充たす、知識を吸収するなど等、いわゆる自己実現欲求による快感のひとつになることも考えなければならない。
種の保存.生殖欲.本能的性欲が取り残されるが、この性欲も人工授精などで代替できる。女の妊娠も回避可能である。となると、そこには哲学的快楽が待受けている。「性の歴史」は「快楽の歴史」の一部を構成する要素に成り果てる。当サイトも店じまいである。
どうも最後の方はファンタジー社会学になってしまった...

以上の異なる学問等の領域から得た情報を筆者が感を働かせて得た結論「性欲総論」である。当然だが多少の矛盾は薄々知っている。そもそも全てが証明された欲望とは言いがたい「性欲」この程度の認識で充分”早くベットインしろよ!”と怒りの読者の顔が目に浮かぶ。しかし、ベットインに至るには、長い道のりが待っていることは、目次を見れば歴然としている。セックスに焦りは禁物である。

 

 



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